徒然なるままに(書き捨て)
誰かと生きるとは何だろう。
今まで結婚願望がなかったから、一人で生きていくものだと思っていた。
自分の命を背負うだけでも精いっぱい、そんな私が結婚に向いているとは思えない。
だから、きっと変わっていく周りの環境をさみしく思いながら祝福するんだろうと思っていた。
まわりの親友たちがみんな結婚して、私は一人ぼっちで、どうしようもなく寂しくなったら婚活でもするんだろうか、その時に必死になるんだろうかと思っていた。
必死で生きて、見えない何かに抗いながら戦う曲ばかり好んで聞いた。
私の生き方がそうだったから。
どうせなら短く太く、戦い抜いて何かの為に死んでみたいと思った。
私にとって自分の命は重くない。
軽くもないけれど。
不老長寿とか永遠の命とか、ファンタジーであふれたそれらの設定を羨んだことはただの一度もない。
不老だけは体が健康であることを前提条件にいいなと思ったことがないわけではないけれど。
生きること、それは痛み。
生きること、それは苦痛。
生きること、それは責任。
生きること、それはこのくそったれな世の中でどう「幸福」を見出すか。
生きること、この残酷な世界の何に「美しさ」を見出すか。
私はよく言えば思考回路が若いのだろう。
思春期を抜け、年齢を重ねて丸く穏やかになっても、ずっと思春期のような葛藤を抱いていた。
何もかもから逃げ出したいときもあった。
生きることとは何だろうか、考えても意味のないことを考え続ける人生、それが私の人生であり、私という個体の難儀な特徴でもあったんだろうと思う。
そして、「一人」という部分にしか焦点を置いて考えていなかった私は、まわりを勝手に羨みながら一人でいろんなこと抱えた気になって失ったもの、大切なものを数えていくんだろうなと思っていた。
そういう曲もたくさん聞いた。
永遠の愛を唄う曲をどこか内心嘲笑っていた。
今でもその節は抜けない。結婚してもいい、どうせ合わなくなったら離婚する、それが私の根本だった。
過去に付き合った人たちも信じていなかったと言えば信じていなかったのだろう。
私はいつこの人と別れるのだろうと思いながら共にいたから。
いろんな人の人生と交差して、少し交わって離れていくのだろうと思っていたが、そうではなかったようだ。
人と共に、生きるとはなんだろう。
自我のないころから一緒にいたわけでもない、価値観も生活も何もかもが違う人間と一緒に生きるとは。
人の考えを変えるものは何だろう。
人との出会いだろうか。
同じ傷を背負ったことのある人間の生い立ちだろうか。
そんなくだらない疑問が脳をかすめて、そうして私はこのようにただ脳内が思うままに指を動かし、タイプしている。
いつか、青臭くて恥ずかしい思考だと今日のことを振り返るときもあるのだろうか。
そんな未来のことは知らない、ただ、私は、生きているし、これからも生きていかねばならないのだろうと思う。
私が死んだら悲しんでしまう誰かのために。
悲しんでくれる人たちのために。
最後には「なんだかんだ幸せだった」と笑えるその日まで。